「香港英字新聞記者一年生」
平賀緑 著
和仁廉夫・金丸知好・平賀緑編、飯田勇写真 『香港「返還」狂騒曲:ドキュメント香港1996〜97』社会評論社、1997年。50ページ。
平賀緑の原稿集
第三世界ジャーナリストを目指す

英語で出版されたもの
広島原爆投下50周年によせて

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香港の日本軍占領跡を訪れた日本人たち

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中国移民に大きな障壁の香港教育制度

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希望と正義を歌うフィリピンの活動家たち

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日本語で出版されたもの
7月1日へのプレリュード: 香港返還直前事情

私たちは商品じゃない: 香港の外国人家事労働者の苦しみと闘い

香港英字新聞記者一年生

経歴


「それじゃ、今日の午後から取材よろしくね。」私をスタッフに紹介し終わったミランダが何気なく言った時、私は耳を疑った。今日は出社一日目だから仕事の説明だけだろうとスーツを着込んで来たばかり。記者仕事も初めてで右も左も解らない。あまりのあわてぶりに同情してくれたのかその日はチーフ・レポーターが同行してくれることになった。香港官庁まで当時問題になっていた鮫退治の発表を聞きに行き、会見の模様をテープに録音して帰社。ろくな説明もないままコンピュータに向かって記事を書くよう指示され、四苦八苦しながら一本目の記事を書き込む。ところが、チーフに見せた途端、有無を言わさずほとんど全部書き直され、結局、署名は私でも実際はチーフが書いた記事が翌日の紙面に掲載された。

取材に先輩記者が付き添うなんて、香港では特例中の特例だったようで、他の記者は入社したその日から取材に駆け回る。私も翌日からは全く一人で取材に飛ばされ、誤報をしはしないか冷や冷やしながら記事を書いた。私のホンコンスタンダードでの記者生活はこうして始まった。

94年春に大学を卒業した私は、その夏から1年間の奨学金をもらい香港中文大学に留学、語学センターで普通語を学ぶ傍ら、大学の新聞学部の講義を履修した。ある日、学部が返還前の香港メディアに関するセミナーを開催し、そこで地元英字紙ホンコン・スタンダードの編集長、テリー・チャンと知り合った。私があつかましくも新聞社の自主規制について質問したり、講演後の談話の時に日本人スタッフの有無について聞いたりしたので、彼の記憶に残ったらしい。その後、クラスで会社見学に言ったとき、私が記者志望であると話すと、「今まで日本人の記者は採用したことがないが、留学が終わった後に挑戦してみないか」と誘ってくれた。そこで、学期末にテリーに連絡を取り、面接・試験の結果、私は無事ホンコンスタンダード唯一の日本人記者として採用された。

ホンコン・スタンダードは1949年にタイガーバームでもうけた胡文虎が創立した新聞で、中国語では「英文虎報」と呼ぶ。発行部数は5万部ほどで、当時3誌あった香港地元英字紙の2位を占めていた。専属の記者は約90名。その出身地は香港、中国、イギリス、オーストラリア、アメリカ、フィリピン、スリランカ、シンガポールなど20数カ国にわたり、国籍も職歴も様々だった。

憧れの記者職に就けたからには、スタンダードで5年くらい働いて経験を積もう、と意気込む私に同僚のジェシカは「5年!そんなに長くここで働くの?」と、目を丸くして驚いた。私の入社一ヶ月後、オフィスでケーキが配られ、何事かと訪ねると1年ほど先輩の若手記者が別の中文新聞社に転職するという。スタンダードには退社時に会社中の同僚にチョコレートを配り「私、転職するの!」と最後の挨拶をする習慣がある。1年後に私自身が挨拶回りをするまでにチョコレートをいくつもらったことか。「あなたももう新人じゃないんだから」と上司に言われたとき、私はまだ入社6カ月だった。

カデットという新人教育の一貫で、私は初めの3カ月をニュースデスク、次の3カ月を特集デスク、残りの半年を中学・高校生向けの教育デスクを担当した。新人教育とはいうものの、給料が安いだけでやっていることは正規の記者と全く変わらない。ニュースデスクでは、前日夜遅くに取材割当を聞き、翌日そのまま取材地に直行したり、出勤して他中文紙を見ながらネタを探したり。取材が終われば遠路はるばる帰社し(スタンダード社は香港の中心街から1時間かかる九龍湾にあった)コンピュータに原稿を打ち込む。夜の締め切りまでに2〜3本、多いときには同じ記者が一日に5〜6本、記事を送信し、デスクのOKが出たらめでたく勤務終了。記者クラブ制度がないため、取材がないときは基本的にオフィスに戻り、電話をかけまわったり新聞を繰ったりして記事ネタを探す点が日本の新聞社と違う。

返還前の香港社会を新聞記者としてかけずり回ったのは得難い経験だった。7月7日には廬溝橋事件記念日に日本の軍政を抗議するデモ隊を自分が日本人と知れたらどうしようと冷や汗をかきながら取材した。入社一ヶ月後に取材した「香港過渡期研究計画」という返還前の香港人アイデンティティー調査を取材した記事が1面トップに掲載されたときはうれしかった。パッテン総督に抗議に行くデモ隊と公邸の門口まで歩いたり、香港人の性意識調査結果を取材して主催者側からコンドーム1箱手渡されたりしたこともある。取材先のあちこちでいろんな人に知り合い、香港社会のいろんな側面を垣間みることができた興味深い1年だった。

午後6時になるとテレビニュースを見るためオフィスの片隅に皆が集まる。ATVとTVBと2局のニュースを見てその日のニュースを確認する。中国デスクのセシールはそこの常連だった。「中国通信社からの記事は逆さまにして読む。彼らの記事の冒頭には内容がなく、ニュースになる重要情報はいつも終わりの方にさりげなく記してある。」というのが彼女の説だった。彼女は香港や中国の歴史背景を把握している珍しい存在だった。ほとんどの記者が歴史に疎く、「香港が日本軍占領から解放されたのは何日だったっけ?」と戦後50周年特集を取材中の香港人記者に聞かれたときは空いた口がふさがらなかった。

興味深い体験をする一方、苦労も絶えない。中国へ投資するビジネスマンを対象にした汚職対策セミナーの取材に行った時、講演も質疑応答も全て英訳なしの広東語で行われ私はお手上げ状態。台風が吹き荒れた時、街頭インタビューするよう飛ばされたときは地下鉄の片隅でどの香港人が英語を話せるだろう、と急ぎ早に帰宅する人たちの顔を見ながら考えていた。「取材は英語でも出来る」と編集長は言うけれども、そう簡単にはいかない。ほとんどの記者会見は広東語で行われ、質疑応答も広東語。西洋人とかフィリピン人とか外見で外国人と解る記者には会見主催者側が英文のプレスリリースを持ってきたり通訳をかってでたりするが、私は一見中国人に見えるため、私がいきなり英語で声をあげるとよく奇妙な顔をされた。加えて、英語を一応話せる香港人でも英語で話すのはおっくうなもの。広東語では大声でまくしたてていた発言者が、英語になった途端口が重くなり、イェス・ノーの返答で終わってしまうこともしばしばだった。これはまずい、と私も週末に個人教授を頼んで広東語を学び、簡単な取材ならつたない広東語で何とかこなせるようになったが、英語で取れる情報と広東語で取れる情報とは量も質も雲泥の差がある。

4月、オフィスは重苦しい雰囲気に沈でいた。その日は年に一度の給料改定日。その年の記者の実績プラス物価上昇率が検討され翌年1年間の給料が決定される。この年は「過去の急成長を遂げた後、我が社は現在不景気による広告料の激減のため財政的に困難な時期にある。本来ならば記者諸君の日頃の貢献に対してもっと報わなければならないが、この様な事情であることを理解して欲しい」との主旨の手紙と共に、お情け程度の給料アップしかなかった。その後、数週間の内にスタッフがバタバタと退社してしまった。

給料の面で安月給はもとより覚悟の上、何とか独り身で食べていけるだけは貰えたので不満はなかった。しかし、スタンダードのメディアとしての質の低さに不満を覚えるようになり、入社して1年たつ頃にはしばしば編集長とかち合う様になってしまった。特に、英語教師上がりの教育面担当デスクの意見には同意できなかった。一日2本のノルマをこなすため取材は電話で済ませろとか、自分の記事の主旨に沿った意見を相手に言わせるべきだとか、納得のいかない物が多い。香港の中学・高校生を対象にした教育面はとにかく「読者にとって有益な情報を提供する」ため、英語力を向上させる方法、勉強のストレスに打ち勝つ方法、などに焦点が向けられた。私としてはむしろ日本や海外のことを取り上げ学生の関心と知識を広める記事を書くべきだと思ったが、その様な企画は「香港の学生に関係がない」との理由で却下されてしまった。

ホンコン・スタンダードに入って1年1カ月後の96年7月、私は最後の挨拶回りをした。折角のチャンスをもったいないという思いと挫折感、それでもこのまま仕事を続けたら視野の狭い程度の低い記者になってしまう、との恐怖感から、悩みに悩んだ末の転職だった。日本のお菓子をバスケットに入れて世話になった同僚のみんなに配ったとき、しかし、皆からは祝福の挨拶を受けてしまった。「どうして悲しむ必要があるの?転職っていうのはそれだけ給料も上がり新しいチャンスがある事じゃない。おめでとう!」と、同僚に明るく言われたとき、私は返す言葉がなかった。

スタンダードを離れて1年後、当時の同僚達はほとんど皆会社を離れ、時に再会してもスタンダードの名刺を持っている人は皆無になってしまった。今あの会社に行っても馴染みの記者は一人もいない。


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